豚丼物語 第一部 歴史編[2/4] 
誕生の昭和8年 食事情

 「十勝ならではのメニューを作ろう」。大衆食堂「ぱんちょう」の創業者、阿部秀司さん(故人)が思いついた1933年(昭和8年)は、帯広の市制施行と重なる。並々ならぬ意欲は、街の祝賀ムードが関係していたのかもしれない。

「ぱんちょう」が創業し、豚丼が生まれた1933年(昭和8年)の頃の帯広

「ぱんちょう」が創業し、豚丼が生まれた1933年(昭和8年)は帯広に市制が施行された年だった。9月、西2条通で行われた「帯広市制記念総合広告祭」、街はお祝いムードに包まれた(「帯広市制記念写真集」より)

 仕事に明け暮れた阿部さんにとって、唯一の趣味は川釣り。休みになると帯広や中札内の郊外にでかけた。そこで農家の丸々と太った豚を見て、阿部さんは「これだ!」とひらめいた。長女の幸子さん(70)は「父はこの豚を使って料理ができないか考えたようです。十勝は寒い所、体が温まり、誰もが食べられる十勝特有の物を、と言っていました」と話す。

 豚と十勝の歴史は深い。郷土史研究家の井上壽さん(77)は「豚を初めて持ち込んだのは明治の晩成社だが、豚を食べるようになったのは大正後半」とする。このころ、飼養頭数は飛躍的に伸びる。「牛は肥育方法が未熟だったことや、開拓の苦労を共にした人情もあって食べられなかった。対して豚は雑穀で手軽に育ち、食べるのに抵抗がなかった」と言う。

 33年1月18日付の十勝毎日新聞によると「1年に帯広町民が食べる肉量は断然豚が幅を利かし681頭、次いで馬547頭、牛171頭」とある。農家では豚肉加工講習会が開かれ、豚肉の需要は高まっていた。

鰻丼ヒントにしょうゆ味

 豚は食べても、豚鍋か、すき焼き。豚カツなど洋食は庶民の手に届かない。料理方法の限られていた豚肉に、阿部さんは目をつけた。「庶民でも食べられる味を」。夜中に突然起き上がり、作り出すこともあった。行き着いたのは、「日本人は鰻(うなぎ)が好き」。そして、「鰻丼」に近い、しょうゆをベースにした味が生まれた。

 ぱんちょうの店先には「鰻丼よりうまい当店自慢の豚丼を召し上がれ」と書いた看板が立った。

「超」豚丼データベース

豚丼データベースからランダム表示
  • レストラン 郷里ちゅうる…

    レストラン 郷里ちゅうる…

  • 豚丼のぶたはげ帯広本店

    豚丼のぶたはげ帯広本店

  • とんかつの店 とんげん

    とんかつの店 とんげん

  • ふじや食堂

    ふじや食堂

  • ファミリーとんかつの店 …

    ファミリーとんかつの店 …

  • 居酒屋 寿楽の息子

    居酒屋 寿楽の息子